日本での初公開から10日で107億円という記録的な興行収入を獲得し、コロナ禍という特殊な状況とはいえ、同期間の日本を除く世界全ての興行成績すら上回ってしまうという、異常ともいえる結果を出した『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』。ブームは社会現象と呼べるまでに加熱し、コロナ禍による劇場の興行不振のなかで、その凄まじい勢いは上映館の救いの主となっている。

 しかし、いったいなぜ本作はここまでの大ヒットにつながったのだろうか。膨大な上映館数の確保、TVシリーズのネット配信、原作の連載完結などなど、多くの条件が重なったことが、この結果を生み出すことに寄与したのは確かだろう。だが、あくまでそれらは外部的な要因でしかない。どんなに大規模なプロモーションを打とうが、結果が出ないものは出ないのだ。ここでは、作品の中身そのものに絞って、今回多くの観客を呼び込むことになった理由を見つけていきたい。


TVシリーズ第1話を思い出してほしい。山奥に住む主人公の竈門炭治郎(かまど・たんじろう)は、家を留守にしている間に家族が鬼の襲撃に遭い、母親や弟、妹たちを惨殺されてしまう。一人だけ、かろうじて生きていた妹の禰豆子(ねずこ)を治療するため、彼女を背負って、山奥の自宅から離れた麓の村まで向かうという、絶望的な物語の幕開けを、第1話冒頭のシーンとして切り取っている。そのときカメラは、炭治郎を俯瞰しながら上空へと上がり、彼の向かう先がおそろしく遠くにあるということを、スケール感を与えながら表現する。

 手描きで表現することが困難な、ドローン撮影のような実写的カメラワーク。これはufotableが、CGを得意とするスタジオだからこそ達成し得たシーンだといえよう。しかし、こんな難度の高いカットを作らなくても、最低限、原作の雰囲気を再現したシーンで内容を構成するだけで、アニメ化の仕事はまっとうできたはずなのだ。

 人気漫画作品を原作にしたアニメーション、とりわけ近年の『週刊少年ジャンプ』作品というのは、スタジオの暴走を許さず、原作から外れた内容を描かないように、絵柄にも物語にも、レールから外れないよう厳しいチェックを入れるはずであり、その目はより厳しいものとなってきている。だから、この種の題材は比較的自由度がなく、やり甲斐が薄いと感じてしまうクリエイターも少なくないのではないだろうか。しかし、そんな状況においても、アニメーションが独自に描くことができる範囲がある。それは、原作のコマとコマの間に存在する、“描かれなかった余白”であり、絵の中で“省略された動き”である。

 この余白をリッチにしていくという努力は、炭治郎が鬼を退治するための剣技を習得し技を披露するシーンで、派手に表現されることになる。原作でも印象深い、刀から葛飾北斎の浮世絵のような波が現れるという演出を、CGと手描きによって見事なアニメーションとして映し出すことに成功したのである。このように、エフェクトや細かなアニメーションの動きに取り組み、新しい表現を生み出そうとするこだわりが、作品のクオリティを高く保つことに結びついたのだ。

漫画『鬼滅の刃』のアクションは、少年漫画のなかでとくに際立ったものだとは言いづらい。なかでも必殺技にあたる、太刀筋を表す“型”の表現については、それがどんな原理でどんな効果が起こっているのか、そしてどう技同士がぶつかり合っているのか、漠然としていて抽象的だと感じる場面が少なくない。その意味では、技の名前を叫ぶものの実際に何が起こっているかよく分からない『聖闘士星矢』などの作品に通じるところがある。一枚の絵としては華やかに感じるものの、殺陣(たて)そのものにそれほど興味がないのではないか。だが、この動きをアニメーションが、より具体的なものとして補完してくれる役割を果たすのである。


そんな研鑽の結果が、ついに爆発するのが、「那田蜘蛛山編」といわれるTVシリーズの一部で描かれる、強敵とのバトルシーンである。次々に技を繰り出し、さらには回想シーンをはさみながら、派手なエフェクトと手描きアニメーション、縦横無尽に動く視点によって表現されたバトル描写は、原作が描いたアクションの流れを、極限まできらびやかに連続性をもって生まれ変わっている。これによって、漫画では見過ごされてきた細部の魅力が強調され、多くの観客がアクションそのものを深く味わえるようになるのである


ufotableは、そんな“増幅器(ブースター)”としての役割を受け入れた上で、余白にあらゆる創造性や表現手法を投げ込むことを選択したということだ。こうして、炭治郎の畳み掛ける技の連続や、仲間の善逸(ぜんいつ)らのアクションの魅力は、原作の表現を否定しないかたちで“増幅”されたものとなる。

 そこで、何が起きるか。もともと原作漫画が用意している、読者を喜ばせる最大の魅力というのは、アクションの果てに生まれるカタルシスの爆発である。ここでは、鬼に対して効果的な武器「日輪刀」によって“鬼の首を斬る”、または日光によって“鬼を滅する”ことで、「鬼滅」の本懐を遂げる瞬間が、それにあたるだろう。人間を襲う鬼による被害や、鬼の冷酷さや残忍さ、そして炭治郎たちが苦しめられるほど、その蓄積はカタルシスを盛り上げる火薬の量を増すことにつながっていく。そして、鬼が敗れる瞬間、爆弾が起爆するように、それまでの重圧からの解放が巡ってくる。ブースターの役割を担っているアニメ版では、そのカタルシスの爆発の規模がはるかに大きくなるのだ。「那田蜘蛛山編」は、まさにそのメカニズムをきわめて分かりやすく証明するエピソードとなった。

 それは、もちろんベースとなった原作漫画自体の持つ魅力があってこそだ。『鬼滅の刃』が抜きん出ている特長は、首を狩るという、分かりやすい目的が存在することである。通常の人間におけるフィジカル能力をはるかに超えた戦いを表現する多くのバトル漫画は、どのくらい敵にダメージを与えられれば勝利を得られるのかが分かりづらい。そこで、作者のリアリズムのバランスやアイディアが、その都度問われることになるのである。その点、『鬼滅の刃』は基本的に、斬る、滅するという一点に全ての想いを集約させることができる。

これは、ufotableにとっても、自分たちの製作能力を最大限に活かす機会に恵まれたといえるのではないか。この、きわめて明快なメカニズムと、“妹や人々を救うために奮闘する”という主人公のシンプルな行動原理を得たことで、表現が多くの視聴者、観客の心に届くものになったのだ。

 くわえて、炭治郎の家族が蹂躙されたように、カタルシスを醸成する、鬼の残忍さを示すエピソードの強烈さ、禍々しさも、原作者・吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)の得意とするところだろう。多くの鬼たちは人間を喰らうが、それだけでなく被害者の遺品をコレクションしていたり、助けを請う人間の表情を楽しんだりと、サイコキラーのような性質を持っていることがある。このような猟奇的表現や、そこに一種の恍惚を求めるような倒錯した耽美というのは、大正時代の日本を舞台にしていることも相まって、大正期の作家である泉鏡花の『高野聖』などの怪奇的な幻想文学を想起させられるところがある。このような趣味を、『子連れ狼』や『うしおととら』など、既存の漫画の要素をくわえながら、バトル漫画の文脈に乗せたところに、本作のユニークさがある。

そんな鬼のおそろしさ、鬼を退治することの快感を描く一方で、一部の鬼については、かつて人間だった頃の記憶や、その想いを鎮めるような場面を作っているという特徴もある。敵の背景を描くことでドラマを生み出すというのは、本作ばかりではなく、少年漫画の手法としては珍しくない。だがここでは、鬼はもちろん、鬼を倒す組織「鬼殺隊」に所属する少年少女たちが、それぞれに傷つけられ、すでに取り返しのつかない状況に追いつめられているように、基本的に全員が不幸のただなかにあるというのが印象的なのだ

そんな者たちで構成されている、鬼、鬼殺隊、どちらの陣営も、厳しく監視されながら危険な任務を与えられ、命のやり取りによって、その存在が消費され続けている。こんな状態が長年の間繰り返し続いけられているというのだ。この絶望的な世界観は、災害や経済状況、政治状況を含めた近年の日本の社会情勢が背景にあるのではないか。国連で調査している「世界幸福度ランキング」において、ここ5年間、日本の順位は下降の一途を辿っている。そのような暗い世相によって、人々が『鬼滅の刃』のダークで不幸な物語に共鳴しているのかもしれない。

 そう考えると、主人公が家族を失うという展開は、かつての日本から失われた、平凡な幸福の喪失を示す象徴的な悲劇にも見えてくる。そして登場人物たちが、不幸のなかで感じるささやかな慰めこそが、現在多くの人々が求めている、唯一リアリティのある幸福の姿であり、子どもたちが感じている、漠然とした未来への不安を麻痺させる僅かな希望なのではないだろうか。

 さて、これらを踏まえたうえで、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は、どうだったのだろうか。



本作では、蒸気機関車の乗客たちが忽然と姿を消すという事件が発生。鬼殺隊はこれを鬼の仕業だとして、隊員を事件が起こった汽車へと送り込むといった物語となっている。炭治郎と禰豆子、善逸、伊之助(いのすけ)といういつもの面々のほかに、鬼殺隊は「柱(はしら)」と呼ばれるトップ9人の剣士の一人である煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)を差し向けていた。かくして炭治郎らと煉獄のチームは、夜汽車のなかで敵を待ち受けることになる。



 対するのは、鬼の禍の元凶・鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)の配下のなかでもトップの12体「十二鬼月(じゅうにきづき)」の配下・7番目の序列にあたる魘夢(えんむ)。実力のある鬼が使う血鬼術(けっきじゅつ)によって、炭治郎たちを眠らせ、夢の世界へと送り込む。人間だった頃よりサイコパスだったという魘夢は、人間に幸せな夢を見せた後で、夢を悪夢に変えることで、人間の苦悶の表情を見ながら殺すことが大好き。鬼のなかでは比較的、同情の余地がないキャラクターだ。

 炭治郎は、夢のなかで自分の首を刀で斬り落とし自決することで、そんな魘夢の術を破ることに成功する。魘夢は何度も術をかけるが、炭治郎はその度に自決を繰り返し、魘夢の首を狙う。その執念は、サイコパスの魘夢をして、まともではないと口走らせる。夢は次第に悪夢の様相を見せ、夢のなかで優しく炭治郎に接する家族たちが、生き残ったことを責めるようになってくる。

 このエピソードは、ダークな展開の『鬼滅の刃』のなかでも、残酷きわまるものだ。とくに自決を延々と繰り返すという異常な描写は、これがいま子どもたちに人気の作品だということを忘れさせてしまうところがある。そして、何度も死ぬことよりも生きることの方がより辛いのだという価値観は、『鬼滅の刃』の本質部分であるように思える。そんな炭治郎を支える信念は、生き残った妹が現実に存在し、彼女を守らなければならないという想いゆえである。



 そんな炭治郎の悲壮さに対して、異なる世界を見せるのが、本作の実質的な主役となる煉獄杏寿郎という存在である。彼は、自分の最も大事な人間から教えられた倫理観を引き継ぎ、隊員や乗客を含め人間を一人も死なせないという信念のもと、絶対的な強さを持つ敵との対決に挑む。

 鬼は致命傷を受けない限り、身体をすぐに修復することができるし、数千年以上の時を生きることができる。杏寿郎はおそろしいほどの鍛錬によって剣技の冴えを獲得したが、個の人間としての肉体の弱さと、数十年で衰弱する運命を背負っている。だが彼は、人間の強さは精神に宿り、その強さは次代へと受け継がれていくと考える。そして、強い者は弱い者を守ることが責務なのだという信条を持っている。これこそ、現代に生きる多くの人々が強者に対して無自覚的に、ときに自覚的に欲しているものなのではないか。世の中というのは、そうあるべきではないのか。

 一方で、信念や倫理を守るために進んで犠牲になるような選択を、“感動”として認識してしまうことには危うさもある。本作では、鬼殺隊を束ねる“お館様”が、これまで犠牲になった隊員たちの墓参りをする、一見慈悲深いと思える場面がある。だが鬼殺隊が、用心に用心を重ね、さらに多くの戦力を後詰めとしていれば、ここまでのピンチに陥ることはなかっただろう。その責任はやはり追及されなければならないし、そもそも入隊の最終選別試験で多くの子どもたちの命がいたずらに失われていることを考えれば、そんな鬼のような伝統を存続させているお館様を、いまさら好意的に描くことは矛盾を引き起こすことになってしまう。


本作は、まっすぐな正義を描きながらも、見方を変えれば、同じ目的と思想を持つ集団が命を捧げるカルト的な状況を後押ししてしまう面もある。この精神的な一体感によって不幸という痛みを麻痺させようとする、麻酔の気持ちの良さは、ある意味で『君の名は。』(2016年)における、日本神話を根拠に日本全体が災害から癒されるような、大きな価値観に吸い込まれていく感覚に近いところがある。良くも悪くも、自覚的にしろそうでないにせよ、背景にはこのようなものが渦巻いているという点については、意識しておいた方がいいだろう。



 クライマックスはこれでもかとエフェクトが乱れ飛び、ufotableの実力を、これ以上は困難だと思えるほど最大限に投入した凄まじさを見せる。その意味で本作『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は、原作の持つ力と、そのポテンシャルを極限まで引き出すことで、まさに炎のような熱を放つことに成功した、現時点での『鬼滅の刃』を象徴する一作となったといえる。原作だけでも、スタジオだけでも、この境地に達することはできなかっただろう。『鬼滅の刃』は、それぞれに足りないところを補い合うことで、多くの観客を熱狂させる劇場版へと昇華したといえるのだ。

 ここまで述べてきたことは、あくまでヒットへと至る要素に過ぎないが、同時に核となる部分でもある。『君の名は。』が大ヒットして以来、高校生の男女を主人公とした同様の企画が乱立したが、今後は『鬼滅の刃』を意識した劇場アニメーションの企画が増えてくる可能性が大きい。だが、設定など作品の外形的な特徴ではなく、このような核となるものを見ることが最も重要なのではないだろうか。むしろ多様性を持った作品を増やしていくことが、今後の日本のアニメーション、映画館を盛り上げていくことになるはずである。

『横道世之介』

 『パレード』『悪人』の吉田修一による同名小説を、高良健吾を主演に迎え、『南極料理人』『キツツキと雨』の沖田修一監督が映画化した青春ストーリー。80年代を舞台に、大学進学のために長崎から上京した青年・世之介と、彼を取り巻く人々の青春と、その後を温かい目線で描く。ヒロイン役の吉高由里子ほか、池松壮亮など若手実力派が多数顔をそろえた。
 1987年。長崎の港町生まれの18歳、横道世之介(高良健吾)は大学進学のために上京。人の頼みを断れないお人好しな彼だったが、嫌みのない図々しさが人を呼び、倉持一平(池松壮亮)や加藤雄介(綾野剛)、そしてガールフレンドの与謝野祥子(吉高由里子)たちと共に大学生活を過ごしていた。やがて世之介に起こったある出来事から、その愛しい日々と優しい記憶の数々が呼び覚まされていく。


 感想は「人生ベスト」と絶賛する人から「退屈、駄作、人生の冒涜」と罵る人まで。極端な感想を生むのは間違いない。最初に大絶賛の声を聞いて、その反動からか否定的な意見も増えてきた。かくいう私は初見、「とっても可愛い映画だし好きか嫌いかで言えば断然好きだけど、あきらかにどうかと思うところがあるし、騒がれすぎじゃないか?」という感想で、さらに言えば160分という上映時間は長すぎた。
しかし後から思い返したり考えたりして、「いや、あれはあれで良かったのか?この映画好きかも!」という、この映画における横道世之介的な存在になった。面と向かって一緒にいたときは「なんだこいつ?」と思えるようなことが多々あって、そのときはそこまで好きじゃなかったのに、いま思えば、「そんなあいつと出会えてよかったかも!」と思えるような映画。この評価の時間差に理由はあるので後述。


 『キツツキと雨』や『南極料理人』、その他の沖田作品のカラーをまとめるならば、「 期間限定の広い意味での祭り的な日々」である。
そのときは楽しいというより大変なことも起こっているものの、終わったときにはちょっと寂しいな、というのが一抹残るような日々がテーマとして多い。その中でのギクシャクしたコミュニケーションから生まれる微妙なユーモアが散見される。
 今回の『横道世之介』でもやっていた、二人の人物が「えっ」「えっ」「えっ」というような会話のズレ的なものの面白さ、会話だけでなくギクシャクして車が動かせないようなことも演出としている。
 その祭りのなかにギクシャクしたコミュニケーションの果てに相互理解「の、ようなもの」、成長「の、ようなもの」が見られる。あくまで「成長しました!」という描写はないものの、淡く「の、ようなもの」として描き出される。
 ギクシャクコミュニケーションの面白さを見せるためか長回しやワンショットが多く見受けられ、そのせいで尺が伸びてテンポが長く、悪くいえば間延びしてる。それに加えまったり感があるので、この淡い感じを受け入れられない人も多い。


 本作における「期間限定の祭り的な日々」はズバリ「青春時代」で、この「青春時代」はさらに限定的で、中学高校的な、基本大人の管理下、ある種『桐島、部活やめるってよ』的な、決まった人が決まった時間に決まった場所に置かれるような、陰鬱にもなりうる環境とは違い、自分で自分を見つける“まで”の間、どういう大人になるのかを自分で決めるところではなく、決める“まで”の話。
 具体的には世之介が大学に入ってからの1年間、それはどういう時期かと言うと、私なりの言葉で言うならば、まだ何者でもない自分と言うのが、これから何者にでもなれるという自分に一気に開けてくる季節と言うかそういう瞬間、少なくともその瞬間、自分の未来の可能性というのが無限に広がっているように思える季節。本当に人生の中では一瞬のような季節。例えば、大学進学。大学デビューなんて言葉もあるくらいで、そこで隣に座ったこいつと友達になるのかどうか、どのサークルに入るのか、それによって相当その先が変わってくる。選択肢が無限に広がっている。Choice is yours!! というような、あまりに選択肢が急に自由になるからよるべないしすごく不安なんだけど浮き足立つような、俺は何にでもなれるのかもというような感覚、そのような時期ということである。
 この話、1987年という設定、単なるノスタルジックというよりはある意味日本全体がそう言う、何にでもなれるような気分に包まれていた時期として生きる設定である。
この時代設定を裏づけさせる美術や衣装、あの下北沢・新宿の駅前、美術だったり衣装VFXはこれ見よがしにない範囲でまずはよく、そしてさりげなくやっている。


 とにかくまだ何者でもない自分が、俺これから何者にでもなれるんじゃん?という自分、「何者でもない」に鬱屈しているのが中高生だとしたら、「という俺は何者にでもなれるかも」という可能性に一気に開けている、選択肢が無限に広げられているように思えるその一瞬。何者でもないからこそ何者にでもなれるというこの季節としての青春時代がここで描かれる。=「無限に思えた可能性として見えた青春時代」を、「すでに変更しようのない選択や偶然の集積としての現在」-本作における2003年、「可能性は既に選ばれた場所」としての現在から振り返るというのがこの物語全体の構造である。


 世之介に関わった人々の現在を通じて、世之介は今どうしているのか、2003年現在どうしているのかという情報が小出しに、交互に出てくる。それによってどうなるかというと、1987年、無限の可能性を謳歌しているように見える世之介の未来の可能性が、観客から見ると少しずつ狭められていく。そしてついに究極の、すでに変更しようのない選択や偶然の集積の結果、究極の結果たるある一点にその可能性、最初は無限に見えた可能性がその一点に向けて収斂されていくという作りになっているというのがミソである。


 無限に見えた可能性である過去を、偶然を含めて選ばれたただひとつの可能性としての現在から振り返る、そのことによって選ばれなかったまた別の可能性に思いを馳せる、例えばあれだけ親しかったのになんだか知らないけど今は疎遠になってしまった人たちの人生、これもやはり自分の人生に対して選ばれなかった可能性、そこに思いを馳せる。
 いろんな可能性に思いを馳せ、それでも現にここにある、ただひとつの残された選ばれた可能性、つまり自分の今実際に生きている人生に思いを馳せ、それに抱きしめたいほどの愛着を感じる。それはつまり、無限に見えた可能性たる過去を、選ばれたただひとつの可能性としての現在から振り返るというのは、我々の感じる「懐かしさ」という感情とは何かという本質に迫るような構造なのではないかという風に思える。
横道世之介』という作品を見ていたり思い出したりするときに抱くこのただ事でない切なさは、このくらい大げさな説明もしたくもなるものだった。


 なんて言い方をすれば「どんだけウェットな映画なんだ」と思わされるが、実際はその逆で、ウェットさは完全に抑制された作りで、基本的にはものすごくドライである。過去と現在が平行して語られていく青春映画というと、『サニー 永遠の仲間たち』を連想する人も多い。実際にその映画と非常によく似た見せ方をする場面がある。ただこの『世之介』の場合、『サニー』によく似せた場面が、この劇中では最もウェットな場面である。それでも登場人物が泣くのではなく、涙をうっすらと浮かべるような場面である。


 基本的にこの『世之介』という物語の中では、大した事件は全く起こらない。普通のドラマの話でいえば何の起伏もない。キャラクターに対して葛藤らしい葛藤も描かれない。一応それらは物語の中にはあるが、それは物語の外側に暗示されている。そもそもこの世之介というキャラクター自体が、通常のお人生を描くドラマにおける強く的なキャラクターというよりは、その主役が過去思い出したときに「ああ、あんないついたよな」「あいついいやつだったよね」と言うような、本来ドラマの中では脇役的な、物語的な主役ではないというのもあってウェットにもなってないし、起伏に富んでもいないように思える。
 話自体も世之介が可能性の広がった、まだ何者でもないこの1年、大学の1年間を通じて何者かになる糸口をつかみかけたところ、無限の可能性から1つの可能性の選択を仕掛けたところで、彼のモラトリアム期、つまり、彼に関わった人達の青春のサニーサイド、まさに彼は太陽の扮装をしていて、サニーサイドでもあるというこの物語が語るべきこの季節が終わってしまっている。選択をしかけたところで、「はい、この話終わり」というふうになる。
 彼が本当に何者かになっていく過程、普通ドラマで描かれるような、成長、そのプロセスをあえて描かない、普通の物語で描くようなものあえて空白にした作りである。


一応劇中では、世之介はしょうもないが成長している。向かい合った女の子に、自分が先にケチャップやマスタードをかけ、相手にも渡さないような人間が、一応1年たったらコートを脱がせてハンガーにかけてあげるくらいには成長した。それがいわゆる「隙がなくなった」ということなのかもしれない。いずれにせよ前述した成長を描くのがドラマだとしたら、そこを空白にして、見た人がその空白に各々の人生や知人友人を投影しやすいのが1部に熱狂的なファンを生む理由であって、また批判的な人が出てくる理由でもある。
 起伏もそんなにない、しかしまったりもしていない、でもこの映画が好きで見ている人は劇中ニコニコで見ている。何が素晴らしいかと言うと、この世之介という、いまだ何者でもない感じ、初めて手にした自由という環境の中で、自分で自分の可能性を持て余している、車どころか自分の身体すら上手く動かせないようなあの年頃というか、あの何者でもない時期の人間観を、この高良健吾という、素材自体はとても美しい俳優が、非常に好ましく体現していることである。


 例えば下北沢の駅前でダブルデートの待ち合わせをしているときの、あの重心が定まらない立ち方、腰が一定の位置にないからその腰に手を当てている。また自分の脇の匂いを嗅いだり、それが露骨だと思ったのか、さりげなく脇に手を当て、その手を自分の鼻の下に持っていっていくアクション。ダメ男か。
 余裕が無くなる場面になると口をとがらせた困り顔をする。これはシナリオにも原作にもないため、映画独特の表現で、この佇まいそのものが、いまだ何者でもない、何者かになる手前の人物を、映画的表現として最高に演じている。しかし、この美しい顔のせいで乗れなくなる気持ちも分からないではないが、顔はとてもいいハズなのに、佇いのきょどり感でなんか全然かっこよく見えない人はいる。めっちゃかっこいいのにかっこよく見えない、高良健吾が演じることによる、ちょっとした現実離れしたこの世之介というキャラクターの誰でもあって誰でもないというこの物語におけるバランス、誰もがその人を投影できるし、でも同時に全員であるというバランスにうまく落とし込めている。
 この沖田監督の持ち味であるギクシャク感が、今回のキャラクター描写と完全に合致している。この時期の若者を描くということに得意技のギクシャク感がばっちりと合っている。あといい演出だなと思ったのは、長崎弁が出てきて、特に田舎に帰って仲間と話しているときに長崎弁が出てくるところである。そこも何か標準語に移行していく人物の手前感もいいのではないか。


 間延びしているかもしれないが切るには惜しい瞬間もあって、それが独特のまったりなテンポで、例えば世之介が長崎の実家に帰る時、地元の漁師というかおじさんのアップから投稿見ると向こうからバスが走ってきている。私はせっかちなので、おじさんの顔のアップが終わったらバスがついてればいいじゃん、このテンポでやるから間延びするんだと思うが、バスが止まるか止まらないかぐらいのタイミングで猫が横切ったりして、なんだかいい時間になっている。
 その時その時は無下に感じられる時間が、後から考えればかけがえのないものだったなーという時間を描くにはこのテンポ感は合っているともいえる。そのために体感的な長さが必要で、だから160分という長さはこの感じを与えるならば必要である。結果的にこの作品が好きになったものの意見ではあるが、とは言えもう少しタイトに絞れる余地があった。ただ、実際にタイトに作ったら意外と普通の映画になってしまって面白くなくなってしまうのではないかと思える。


さらに特筆するならば、高良健吾さん以上いじょうに、吉高由里子。世之介のノチにガールフレンドとなっていく祥子、お嬢様。祥子の父親はバブル初期に大挙して湧いて出た「バブル成金」であり、後に登場するシーンでは、「金持ちの父親としてどう娘(やその周辺)に接するのが正解なのか判らないオトコ」として造形されている。つまり、祥子はまさにお嬢様のパロディとして育てられている。
非常に現実離れした素っ頓狂なキャラクター、文章ではいいかもしれないがこれは実写でやるのはきついだろう、普通で言えばそんなキャラクターなのに、吉高由里子は間違いなく、世界中の誰もが不可能なレベルで、チャーミングにそして説得力、普通はありえないのにこういう人だったらいるのかもと思わせるような説得力を持ってえんじている。吉高由里子は満点としか言いようがない。素材的に吉高由里子が素っ頓狂なキャラクターを持っているというところもある。


例えば初めて世之介と出会ってダブルデートする際、本格的な分厚いハンバーガーを頬張るシーンの愛らしさ、なんて可愛らしいカップルなんだろうというような、それだけならリア充死ねと思えるような場面だが、そのハンバーガーを頬張る仕草が、後でお嬢様育ちからキリッと変わって大人になった、国連のボランティアで働いている現在の祥子さんが、あの愛おしかったあの仕草を繰り返す、とても見事な映画的な思い出させ表現である。仕草の繰り返しが何かをリマインドする。とにかくこのカップル、世之介の誰でもあって誰でもない感じと祥子さんの現実離れした感じが2人揃うとフワフワ感の二乗で、浮いた感じがあるのでそれに乗ってられない人がいるのもわかるが、「こんな時間が本当にあったのか、でも目の前で実際に行われている、信じられないような多幸感、化学反応をこの2人は起こしている。しかもそれは物語性全体の仕掛けにより常に俯瞰されている。多幸感に溢れている瞬間ほど俯瞰されていて、例えばキスシーンはカメラが文字通り俯瞰されていて、あれは誰の視点なのか未来からなのかなのか分からないが、今回のカメラ監督近藤龍人さん、『桐島、部活やめるってよ』から本当に見事な撮影で素晴らしい。
 常に俯瞰されているし、現在大人の視点からも出されていて、例えば病室でお互い呼び捨てしあいましょうというシーン、そこだけとればただ単にバカップルのいちゃつきに見えるかもしれないが、そこで、それまでは非常に非常にコメディー的な笑いの立場で扱われていた横にいるお手伝いさんの視点に移っていく、あれは完全に我々観客の視点である。「なんて美しい瞬間。なんだけど…」このお手伝いの視点によって映画全体の構造が思い出される。「そうだ、このカップルは長続きしないのだ」と。


ラストの方でチョコレートを貰った不思議な隣人として室田恵介役の井浦新が出て来て写真展の場面。『まなざし』と題された個展、本編も様々なまなざしが特徴的で、祥子の真正面の眼差し、お手伝いさんの困惑した眼差しも有れば、祥子の両親の眼差し、写真家の眼差しも、隣のお姉さんの心配顔の眼差しが有る。色々な眼差しから生まれる多幸感溢れるデジャブな映像と音楽が郷愁を駆り立てる。恰もジャック・タチの『素敵な伯父さん』ユロが登場するコメデイ・タッチの間合いである。


 前述したある一点によって非常に緩やかではあるけど次第にお話としての推進力は強まっていて、原作小説、またシナリオよりもある一点の仄めかしが多めかつ早めになっていて、この映画的な構成も見事である。


 それにによってちょっとしたやりとりあっやがってやってくる終わりを予感させるのでドキドキするし切ないともいえる。
例えば、世之介が祥子さん撮った写真、現在から見てピンぼけだったりするものもある、現在の祥子さんが自分を撮った写真を眺めるのが2枚ある。1枚目は露出過多でちゃんと撮れてない。でも2枚目はちゃんと撮れている。この1枚のコントラストだけでも切ない。なんで切ないかというと、「ちゃんと像をなす」=「何者かになる」、これが同時に青春の終わりでもある=前述したこの2人のふわふわした感じを、ちゃんと「姿が身をなす」ということが、終わりを予感させている。しかもその写真を包んでいる包み紙が、幸福な時間の落書き、なんてことのない、自分がただなんてことのない時間に書いたただの落書きが押入れの奥から出てきただけであっとなるのに、しかもそれが幸福に包まれた時間のときだったら。この包み紙の演出が映画独自のもので素晴らしい。


 ただこの独特の間延び感×起伏のなさは、全体の構造が見える序盤まで、この構造に納得するまでに粗のほうが気になって、作品に対する態度をその時点で決めてしまう。例えば、最初の新宿駅前で、キスミントのキャンペーンをやっているわらべ風のアイドル、87年にこれは絶対にありえない。これがノイズとなって、作品全体の構造に気づく前に作品に対する態度が決まってしまう。そして序盤のおじさんエピソードは明らかに不要である。おじさん自体は70年代的存在感で面白いかもしれないが。
 それとは別に、これはどうかなと思う部分がかなり多く、これはどうかと思う場面がいちばん重なってしまうのが、物語的に最も重要な情報、つまり世之介の現在が明かされる、まさにそのポイントが、ちょっとこれどうなのかなというのが重なっている。故に物語全体の構造を示す際に、余計なことが気になってしまう。というふうに思う。


 今時あのラジオパーソナリティー感はどうなのか。人生相談で、「好きな人?うん、居るよね~」なんて感じが悪すぎる。正直このラジオパーソナリティー感は古いというか寒い。
 それはまだしも、原作からしてそうだが、世之介の現在に関する情報が、現実にあったある事件を元にしている。そこから生じる倫理的ノイズ。現実にあった痛ましいことを、こういう形で利用するのはどうなのか。このせいで物語に没頭できなかった。
 大学時代の話から十数年後、カメラマンになっていた世之介は、駅のホームから転落した人を助けようとして電車に撥ねられ、その時一緒に韓国人男性も巻き添えになった。
本作は2001年の新大久保駅での転落事故が題材となっていて、韓国人留学生が線路に転落した日本人を命がけで救出しようとした美談として、当時マスコミが大々的に報道していた。
その報道でも、韓国人留学生については大きく取り上げられる一方で、一緒に救出しようとした日本人カメラマンについてはロクに報道もされなかった。本作はそのカメラマンに焦点を当て、彼がどんな奇特な人物だったのかを美談として描いている。世之介はその亡くなったカメラマンがモデルだが、親友だった倉持たちの記憶にもほとんど残っていないというのは、世間に対する皮肉なのかもしれない。
世之介がベトナム難民の密入国者を助けるシーン、これは人を助けるのに国籍関係ないという、マスコミへの皮肉。
 そもそも新大久保駅の事故はマスコミの言うような美談ではなく単なる悲劇で、線路に転落した酔っ払いひとりが撥ねられるだけだったのに、救出のために線路に飛び降りた2人も撥ねられてしまう。
命懸けで人を助けることは称賛に値する勇気かもしれないけど、行為自体は決して見習うべきではない蛮勇で、それを美談とするのは承服しかねる。
 作中で世之介の母親が死んだ息子の思い出について、「息子に出会えたことが一番の幸せ」なんて清々しく語っているが、実際のカメラマンの母親は「これでは無駄死にだ」と嘆かれていた。
本作や本作の原作小説が、遺族の了承を得ているのかどうかは調べられないが、作られた美談を、さらに祀り上げるのはどうかと思うし、正直不愉快さを感じた。
 それを100歩譲って問題なしとしても、世之介の人生を、ヒロイックにも解釈しうるという所に着地させてしまうところ、誰でもあって誰でもないというも世之介の話が、


全ては彼が特別いい人だったとしか思えない。そうすると、作品全体のテーマが揺らぐ。


 しかし原作に比べてヒロイックに解釈しうるような描写はできるだけカットされている。特にラストシーン、何者かになるところで話が終わる、未来に向けて世之介が走り出す、非常に爽やかな絵面、そこにボイスオーバーでお母さんの手紙、世之介が走る先にある、閉ざされた可能性を示す母の手紙の文面が、ヒロイックに解釈できるようなものはカットされているというようにバランスをとっている。原作は、このある痛ましい事件に巻き込まれたという世之介をこれでもかというほどに強調しているが、そこは思い切ってカットしている。いくらでも感動させられるこの場面を、BGMなどは流さずできるだけドライに演出している。
 あと言えば1人でも世之介に好意的な感情を抱かなかった人間を描いておけば、各人が勝手に青春のサニーサイドを見ている感じで、彼らが本当に特別な人間だったとか、本当にサニーサイドばかりだったとかというところも少し否定できてただろうなと思ったりもする。


 昔っぽさ、青春っぽさのノスタルジックなものとは一線を画した、懐かしさという感情の本質を浮かび上がらせるような、しかもそれを俳優の肉体で映画的に体現してみせた、好きになってしまえば欠点ごと愛したくなるような、青春映画の新たなマスターピースではないか。世之介から多大なる影響を受けて人生の方向転換をみせたわけではない彼彼女たち。でも、全くなんの影響も受けなかったのかというと勿論そんなことはなく、人生って、世之介と世之介と出会った人達の関係みたく、微細な何かの積み重ねで形成されているんだよなあってのを改めて気付かせてくれる。